日本名の「竹島」は、元々は現在の鬱陵島を指した名称であり、現在の竹島は本来は「松島」と呼ばれていた。「竹島」という名称は鬱陵島が竹の産地であったことに由来するが、「松島」という名称の由来は不明である。後に鬱陵島が「松島」と呼ばれるようになり、結果的に現在の竹島が「竹島」となった(この経緯については竹島外一島を参照)。「松島」という日本名は朝鮮半島でも古くから知られていたが、日本側は当時の朝鮮は「松島」を現在の竹島と特定できていないとしている。
韓国名の「独島」は、韓国側の説明では、「独」は「石」を意味する朝鮮語方言の当て字であり、この島が石でできた島であることに由来するとしている(石島 (韓国)を参照)。一方で日本側では、孤独な島であることから「独島」と呼ばれるようになったとする説、独島という呼称の由来は不明とする説もある。韓国では独島は古くは「于山島」、後に「石島」と呼ばれていたとしているが、日本側は于山島は当初は架空の島を、後に竹嶼を指したとし、石島は観音島を指すとしている。
第三国で用いられる「リアンクール岩礁」は、1849年に本島を発見したフランスの捕鯨船 Liancourt 号に由来する。かつて日本や韓国で用いられていた「リャンコ」、「ヤンコ」等の呼称もこれに由来する。
地理・自然
女島(東島)、男島(西島)と呼ばれる2つの小島とその周辺の総計37の岩礁からなり、総面積は約0.21km2で、東京ドーム5つほどの島である。最頂部は男島が海抜168m、女島が海抜98m。周囲は断崖絶壁で、飲料水に乏しく、通常は人の住むことができる環境ではない。
なお、日本の国土地理院が2007年12月に発行した竹島の2万5千分の1の地形図では二つの島について「東島」と「西島」と表記しているが[3]、隠岐の島町では資料の調査や聞き取り調査を行い二つの島について「女島(めしま)(東島(ひがししま))」と「男島(おしま)(西島(にししま))」とするとともに岩礁や湾などの名称を定めて2013年6月に国土地理院に申請した[3]。
地史・地質
竹島は、現代からおよそ460万年前から250万年前(新生代第三紀の鮮新世)の海底火山活動により誕生した火山島であり[4]、水深約2,000mの海底から噴出した溶岩が硬化したことにより形成された[5]。朝鮮半島北部の白頭山から金剛山、鬱陵島、隠岐諸島へと連なる白頭火山帯の系列に属する[6]。竹島の火山活動は約250万年前に停止した[7]。当初は1つの島塊であったが、その後の風化と浸食により2つの小島とその周辺の数十の小岩礁の構成となった[8]。
岩石と地質構造の分析結果によると、竹島は単一の火山爆発によって形成されたものではなく、200万年以上の長い期間の断続的爆発と噴火によって形成された[9]。竹島は粗面岩、粗面安山岩、玄武岩質角礫岩、凝灰岩など計8種類の岩石によって構成されている[9]。竹島の下部は主に玄武岩質の集塊岩であり、上部は粗面岩質の集塊岩と凝灰岩が相互層を形成している[9]。岩石の年代は、竹島下部を構成する玄武岩が約460万年前、女島にある火口跡を満たす粗面安山岩が約270万年前であり、島の北西部には約250万年前に貫入した粗面岩が分布している[9]。また火山堆積層が厚く積もった地点があり、断層が2箇所発見されている[9]。
気候
暖流の影響を多く受ける典型的な海洋性気候[10]。平均降水量は年間1,240mm程度であり、冬場の降水量が多い[10]。年平均気温は約12°C[10]。1月の平均気温は1°C、8月の平均気温は23°Cであり、世界平均と比較して温暖である[10]。年平均風速は4.3m/s[10]。冬と春は北西風、夏と秋は南西風の傾向があり、季節に応じた風向きがはっきりしている[10]。霧が多く、晴れの日は年45日程度、曇りの日は年160日程度、雨や雪の日は年150日程度である[11][12]。
生態系
竹島周辺の海域は対馬暖流と北からのリマン海流の接点であり、魚介藻類が豊富な好漁場である。 竹島は伊豆諸島と並んでニホンアシカ (Zalophus californianus japonicus) の主要な繁殖地の一つであったが、1975年の目撃を最後にそれ以降の目撃例は報告されておらず、ほぼ絶滅したと考えられている。ニホンアシカは日本周辺の海に多く生息していたが、漁獲や駆除、乱獲により各地で絶滅。20世紀初頭には生息地は竹島などの一部地域に狭まり、その後も竹島では乱獲が行われた。絶滅の主たる原因は以上のような乱獲によるものだが、その他気候変動や環境汚染、韓国によって竹島が要塞化されたことや在日米軍の軍事演習実施などの軍事関係も絶滅要因の一つとして指摘されている[13]。
領土問題
概要
第二次世界大戦後、日本の領域は、1952年発効のサンフランシスコ平和条約より定められたが、ここには大まかな島嶼の記載しかなく竹島の記載はなかった。(ただしラスク書簡に拠れば竹島の帰属は日本領とされている。)しかし、韓国の李承晩大統領は同島を韓国領であるとし、同条約発効直前にマッカーサー・ラインに倣った李承晩ラインを一方的に設定、竹島を韓国領に取り込んだ。(マッカーサーラインはサンフランシスコ条約発効と共に廃止されている)
その後、日韓基本条約と共に李承晩ラインは廃止されるが、現在に至るまで韓国は武力によって竹島の占拠を続けている。日本は毎年韓国に対して不法な支配であるとの口上書を提出し、また司法解決の提案をするも韓国はこれを拒否。この領有権問題は戦後から続く日韓の大きな外交問題となっている。
- 日本の主張の概略
- 竹島は江戸時代には既に日本人に利用されており(当時の呼称は「松島」)、無主地の竹島は1905年(明治38年)1月の閣議決定で島根県隠岐島司の所管となっている[15]。しかし、第二次世界大戦後の1952年に、韓国の李承晩大統領によって竹島が韓国の支配下にあると一方的に宣言し、武力によりに日本から奪い取っている。李承晩の通告した李承晩ラインは、後の日韓基本条約によって廃止されたにも拘わらず、韓国はその後も不法に軍事占領を続けている。
- 韓国の主張の概略
- 独島(竹島)は、古来より韓国の領土であり、古代には于山国として知られていた。1900年には石島として鬱陵郡の管轄となっている。1905年の日本の竹島編入は侵略戦争の始まりであり無効である。日本との間に領土問題は存在しない。従って、国際司法裁判所に付託する必要はない。
- 北朝鮮の立場
- 北朝鮮による領有権の主張は、もっぱら韓国による竹島の実効支配を支持するという形で行われている。北朝鮮は竹島が軍事境界線以北に属するとは主張しておらず、黄海における北方限界線問題のような実効支配をめぐる南北間の対立は存在しない。
歴史的経緯
韓国による不法な一方的軍事占領
戦後、竹島を日本の施政権から外していたマッカーサー・ラインは1952年4月のサンフランシスコ条約発効と共に廃止されるが、その直前の1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国大統領 李承晩が、竹島は自国の支配下にあると宣言し、同時にマッカーサーラインの替わりとなる李承晩ラインを設定した。日本政府は同月28日に「公海上の線引きに抗議するとともに、竹島に領土権を主張しているかのように見えるがそのような僭称または要求を認めない」と述べた。この時点では韓国が本当に領土権を主張しているのかどうか不確実であったが、2月12日韓国は反論を提示し、以降、両国間で文書を交換するようになった。李承晩ラインは韓国が一方的に宣言したものであり、日本政府もアメリカもこれを国際法上不当なものと抗議した。1952年7月26日、日米安保条約を結んでいるアメリカ政府と日本政府は竹島をアメリカ軍の訓練地として日本国が提供することを約する協定を締結したが[16]、翌1953年1月12日、韓国は「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示し、同2月4日には第一大邦丸事件が発生、船長が韓国軍から銃撃を受け死亡した。同4月20日には韓国の独島義勇守備隊が竹島に駐屯して以降韓国警察の警備隊が占拠を続けている。日本政府は当初より韓国側の不法占拠であるとの声明を出して抗議し続けているが[17]、現在もこの領土問題は解決に至っていない。
「マッカーサー・ライン」および「李承晩ライン」も参照
竹島の漁業経済価値と排他的経済水域問題
竹島は険しい岩山で面積も狭く島自体から得られる利益はほとんど無いが、周囲の広大な排他的経済水域 (EEZ) の漁業権や海底資源の権利が存在する。現在この島のEEZ内で石油などの海底資源は特に見つかっておらず、現在最も問題になっているのは漁業権である。竹島と周辺海域の経済価値は、1952年の日本の水産庁によれば130億円(李ライン内)、1974年の島根県漁連の算出では年間漁獲高は76億円[18]、2010年の韓国の算出では年間11兆5,842億ウォン(約8600億円)である[19]。
当時の国際海洋法から見た韓国の不当性
1952年の李承晩ラインの狙いは漁場としての利益であったともされ、韓国による近海漁業の独占が目的であったとされる[20]。韓国は李ラインを設定し竹島海域の漁業管轄権を主張していたが、これは当時の海洋法からみても違法であった[21]。 「水域は他国と合意された規程により統制管理される」とした1945年のトルーマン宣言以降、アルゼンチン、ペルーなど南米諸国も自国民による排他的な漁業独占権を一方的に設定し、国際問題になっていた。イギリスは3海里を越える水域の排他的管轄権を認めないと1948年にチリ、ペルーに抗議し、フランスも1951年にメキシコ、ペルーに対して「一方的宣言により公海で主権を拡張し、他の国々の権利をおかしてはならない」とし[22]、また1952年には英米共同でチリ、エクアドル、ペルーの共同宣言に抗議した。しかしそのような抗議にも関わらず1954年にペルーはパナマ船籍船を拿捕し、エクアドルは1955年にアメリカ漁船に発砲・拿捕するような情況であった[注釈 5]。
1951年の国際法委員会草案では「いかなる場合にも、いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」と排他的独占権は認めておらず、また「管轄権は関税徴収や衛生目的のものであり、沿岸国が漁業を独占するための管轄権は認められない」とも記されていた[21]。のちの日韓会談において漁業管轄権を国際海洋法の観点から否定する日本に対して韓国側は反論できなかった[21]。
韓国軍による日本人漁民殺害や日本漁船拿捕
1952年1月18日に韓国の李承晩大統領によって海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)がひかれ、竹島が韓国の支配下にあると一方的に宣言した。1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結までに、韓国軍はライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(うち5人が死亡)させ、3,929人を抑留した[15]。韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。
1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕して以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。同年2月4日には第一大邦丸事件が発生した。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。また日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
同年4月20日には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯。6月24日、日本の水産高校の船舶が独島義勇軍守備隊に拿捕される[23]。6月27日に日本の海上保安庁と島根県が竹島調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建て、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。すると、7月12日に竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」(PS-9[23]) に90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込む事件が起きる[23]。
以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
なお当時韓国には拿捕の法的根拠である漁業資源保護法は施行されておらず、日本漁船拿捕は国際法また韓国国内法においても非合法的な行為であった[24]。この韓国の行為に対して日本の水産庁は「他国の類似事例とは比較にならないほど苛烈」と評した[25]。
また、韓国李承晩体制下に行われたかかる行為を、1960年駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、国務省への機密電文[26]の中で「国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為」と表現し、「日本人は李承晩の占領主義的手法で苦しんでいる」と訴えている[27]。
竹島の標識
1952年6月に日本人9人が水産試験船で竹島に上陸し、『島根縣隠地郡五箇所村竹島』と書いた標識を建てた。
1953年10月15日、大韓民国山嶽グループの代表格である韓国山嶽会有志らが写真家を伴って山嶽会員達は、ソ・ドクギュ大尉が指揮する海軍905艇で竹島に渡った。上陸した山嶽会調査隊の構成メンバーは、測地班、記録班、報道班など。彼等は、日本が建てた『島根縣隠地郡五箇所村竹島』の標識を引き抜いた。その後、紅宗人(韓国山嶽会会長、当時の朝鮮日報主筆)が彼等が持って行った「독도(独島)」と書かれた石碑を設置した。この石碑には、表面には「독도」「獨島」「LIANCOURT」(正式フランス語名称は“Rochers de Liancourt”)、裏面には「한국산악회(韓国山嶽会)」「KOREA」「ALPINE ASSOCIATION」「15th AUG 1952」等と刻まれている[28]。
金鍾泌による竹島爆破提案
1962年10月の大平正芳 外相との会談で金鍾泌中央情報部長は、国際司法裁判所への付託を拒否したが、米国務省外交文書集によれば、金鍾泌中央情報部長は日本側に竹島問題の解決策として竹島破壊を提案していた[29]。金鍾泌中央情報部長は、東京での池田勇人総理および大平外相との会談後、訪米。1962年10月29日のディーン・ロスク 国務長官との会談において、ロスク長官が「竹島は何に使われているのか」と問うたところ、金部長は「カモメが糞をしているだけ」と答え、竹島破壊案を自分が日本側に提案したと明かした[29]。
のちに韓国国内で「独島爆破提案説」が問題視された時には、金鍾泌自由民主連合総裁は「日本には絶対に独島を渡すことはできないという意思の表現だった」と弁明している[30]。また2010年の朝鮮日報の取材に対して金鍾泌は「国際司法裁判所で日本のものだという判決が出ても、すべてを爆破してなくしてしまってでも、あなたたちの手に渡すつもりはない」と激高して発言したと回想している[31]が、これは米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録の様子とは趣が異なる。
日韓基本条約と日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文
1965年の日韓基本条約調印によって李承晩ライン正式に廃止され、またその際「竹島問題は紛争処理事項である」と記されたが、韓国は条約を結ぶために日韓双方が事実上棚上げした問題の一つであり、「竹島の領有問題は紛争処理事項でない」という立場を採っている。
また、日韓基本条約締結に伴い「日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文」が取り交わされた。そこには外務部長官李東元署名による韓国側書簡として
「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする」 |
とあるが、以降の韓国政府の対応はこの公文に背反するものとなっている。
この交換公文について日系韓国人の保坂祐二(世宗大学校独島総合研究所)は「独島が紛争地域という日本の主張が交換公文から削除され韓国は独島を紛争地域と認めなかった。したがって交換公文の紛争解決方式も独島には適用されない」、また「ICJ による解決方式は交換公文から除外されたので韓日紛争は ICJ に回付されない」として、この交換公文と日韓基本条約によって日本政府は竹島を日本の領土とする根拠を国際法的に消失し、そのため1965年以降日本政府は ICJ への提訴を韓国に対して公式に提案できなかったのであると主張している[32]。
なお、日本側は日韓国交正常化に至る1951年から1965年までの外交交渉文書の開示を拒み続けている。この文書には竹島問題について日韓双方の発言や、昭和天皇と韓国高官とのやりとりなどが含まれているという[33]。
日韓漁業協定以降
1965年の旧日韓漁業協定では竹島問題については棚上げされた。1980年前後には韓国漁船が山陰沿岸および北海道近海にまで出漁(密漁)し、日本の漁業者と係争が起こった。島根県のシイラ漁漁船は35統から8統にまで激減する[34]。
1996年に日韓両国は国連海洋法条約を批准。それに基づき新日韓漁業協定の締結交渉が開始され、両国の中間線を基準に暫定水域を設定、この海域において双方の漁獲が制限付きで認められた。日本側の配慮により日本が大幅に譲歩した暫定水域は、日韓共同で利用する協定であった。しかし、その後も韓国漁船が漁場を独占し、日本漁船が操業できない状態が続いている[24]。さらに韓国漁船は日本側排他的経済水域(EEZ)にまで侵入するなど不法な漁業行為を行い、また竹島の周辺海域では韓国軍が頻繁に監視を続けている。また、竹島近海の海底地名の命名、および海底地下資源に関する調査活動を巡り、EEZ問題が再燃、EEZ確定交渉が再開されたものの、平行線を辿っている。
争点
竹島を巡る争点には次のようなものがある。
- 誰が最初に発見し、実効支配をしたか(領土の権原)
- 島の同定(于山島、鬱陵島,竹嶼、竹島、松島、石島、観音島ほか)
- 1905年の日本による竹島編入の有効性
- 戦後の GHQ による竹島処分の解釈
- 1952年の韓国による軍事占拠(李承晩ライン問題も含む)
国際判例からみた領土の権原
領土権を主張する根拠(権原)として、譲渡、売買、交換、割譲、先占などがある。パルマス島事件常設仲裁裁判所判決に見られるように国際領土紛争では、「国家権能の平穏かつ継続した表示」という権原を基準に判定される場合が多い(韓国の軍事占領は「平穏」には該当しない)。
詳細は「領土問題#領土の権原」を参照
これまでの国際判例から次のような規則が得られる。
- 中世の事件に依拠した間接的な推定でなく、対象となる土地に直接関係のある証拠が優位。中世の権原は近代的な他の権原に置き換えられるべき(マンキエ・エクレオ諸島事件ICJ判例[35])。
- 紛争が発生した後の行為は実効的占有の証拠とならない。
- 国は、相手国に向かって行った発言と異なる主張はできない。
- 相手国の領有宣言行為または行政権行使を重ねるなどの行動に適時に抗議しないと領有権を認めたことになる。
竹島の領土権原
これらの国際司法判例を竹島領有権問題に照合すると、以下の通り[36]。
- 日本の領土権原
- 歴史的な権原において江戸幕府は竹島を領土と見なしており、日本に領土権原が存する。
- ただし、歴史的な権原は近代的な権原に置き換えられる方が好ましい。
- 1905年の竹島編入以降の日本政府の措置は、まさに国家権能の表示の証拠であり、「国家権能の平穏かつ継続した表示」という権原も認められる。これは近代的な権原である。
- 韓国の領土権原
- 17世紀末に民間の朝鮮人(安龍福)が 日本における「竹島・松島」の知識を朝鮮古来の「鬱陵島・于山島」に当てはめ、松島は于山であるという認識を持ったとしても(以来、朝鮮文献に松島=于山と記述)、その活動は国家を代表して行われたものでない。
- 18世紀以降朝鮮の官撰史書等に松島=于山と記載されたとしても朝鮮は竹島の実地の知見すらない(逆に、于山島が別の島竹嶼を示す史料もある)。仮に地図記載が領有意識の表示としても、それは観念上の領有意識にすぎず、実在の島へ訪れた記録も存在しない。
- したがって韓国には歴史的な権原というべきものがない。
- 1900年に大韓帝国が勅令で「石島」を鬱陵島の行政管轄権に入れた。しかし石島は竹島ではない(韓国は石島が独島と主張)
いずれも一国の領土権の確立に不充分で、無主地の要件は満たされる。
なお、日本が日露戦争中に独島を侵奪したという韓国側の反論があるが、奪ったという議論は、竹島が韓国の領土であったことが証明されない限り成り立たない。
最初の発見者
国際法上、領有権を巡る紛争では「発見」は未成熟権原 (inchoate title) とされ、領有権(権原)とするには合理的期間内に「実効支配」により補完されなければならないとされている[37]。なお、無人や定住に向かない地域では、僅かな実効支配の証拠でもよいとされているが[38]、その証明には、課税や裁判記録といった行政、司法、立法の権限を行使した疑義のない直接的証拠が要求され、不明瞭な記録による間接的推定は認められていない[39][40]。また、他国の抗議等により紛争が顕在化した(決定的期日)以降の法的立場の改善を目的とした活動は、領有権の根拠になり得ないとされている[41]。