最初の発見者
国際法上、領有権を巡る紛争では「発見」は未成熟権原 (inchoate title) とされ、領有権(権原)とするには合理的期間内に「実効支配」により補完されなければならないとされている[37]。なお、無人や定住に向かない地域では、僅かな実効支配の証拠でもよいとされているが[38]、その証明には、課税や裁判記録といった行政、司法、立法の権限を行使した疑義のない直接的証拠が要求され、不明瞭な記録による間接的推定は認められていない[39][40]。また、他国の抗議等により紛争が顕在化した(決定的期日)以降の法的立場の改善を目的とした活動は、領有権の根拠になり得ないとされている[41]。
韓国の主張の概略 | 日本の主張の概略 |
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1145年に編纂された『三国史記』よると512年に于山国は朝鮮の新羅に服属している。後の文献にある于山島はこの于山国の一部であり、その于山島は独島である。つまり独島は512年から韓国の領土である。 | 『三国史記』には于山国である鬱陵島のことは書かれているが、周囲の島のことは全く書かれていない。「別名を鬱陵島という」とあるので、鬱陵島の本来の名が于山島であったと考えられる。 |
『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項に于山島という名が初めて表れる。そこには「按撫使の金麟雨が于山島から還ったとき、大きな竹や水牛皮、芋などを持ち帰り、3人の住民を連れて来た。そして、その島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる」と記載されている。現在の竹島は人が住める環境でないため于山島ではない。 | |
1454年に編纂された『世宗実録』に「于山、武陵二島は県(蔚珍縣)の真東の海中にある。二島はお互いに隔てること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。」とある。天候が良ければ鬱陵島(=武陵)から独島が望めるので、独島が于山島である。 | 原文は『于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日淸明 則可望見 新羅時 稱于山國 一云鬱陵島 地方百里』であり、「于山武陵二島は新羅の時代には于山国と称した、一説には鬱陵島とも云う、100里[注釈 6]四方である。」とある。「一説に鬱陵島とも言う」と言っている様に、この時代の于山武陵二島とは鬱陵島のことを指している。(詳しくは于山島を参照) |
1667年に日本の松江藩士が書いた『隠州視聴合記』には「この二島(鬱陵島と現在の竹島)は無人の地で、高麗が見えるのは、雲州から隠州を望むようだ。よって日本の北西の地で、この州をもって限りとされる。」と書かれている。「この州」とは穏州(隠岐)のことであり日本の限界を隠岐としているので、この時、松島(独島)や鬱陵島が朝鮮領であることを認めている。 | 『隠州視聴合記』の文中には「北西に二日一夜行くと松島(現在の竹島)がある。又一日程で竹島(鬱陵島)がある。俗に磯竹島と言って竹・魚・アシカが多い。この二島は無人の地である。」としており、現在の竹島もはっきり認識している。鬱陵島へは、この文献の50年も前から幕府の許可を得て伯耆国 米子から漁労や竹の伐採などのために渡っており、文中の「この州」とは鬱陵島のことを指しているのかもしれない。仮に「此州」が隠岐を指すとしても、人の住める地が隠岐までと言っているに過ぎない。また朝鮮人が松島(現在の竹島)に来たという証拠は全くない。 |
1728年に編纂された『粛宗実録』に、1696年朝鮮の安龍福が鬱陵島で遭遇した日本人に抗議し、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。」と言っている。子山島は于山島のことで、于山島は独島のことだ。当時の日本は独島を松島と呼んでいるので朝鮮領である。安龍福がその3年前に日本で抗議した時には徳川幕府より于山島は朝鮮領だという書契をもらっている。 | 朝鮮の漁夫である安龍福は鬱陵島や日本に密航した犯罪人である。朝鮮の『粛宗実録』に記載されている安龍福の尋問記録は事実と異なることが多く、日本人を追いかけて松島から日本へ渡ったとしていることは、罪を逃れるための偽証である。安龍福は日本人の言う松島を于山島だとしているが、彼はその于山島の位置を把握していない。また、徳川将軍が朝鮮の漁夫に竹島(現在の鬱陵島)や松島を手放すような書契を渡すはずもない。 |
1696年の安龍福の抗議により、鬱陵島と于山島の帰属を巡って徳川幕府と朝鮮との間に紛争が起こったが、鳥取藩は幕府に竹島(鬱陵島)と松島(独島)は自藩領でないと回答している。幕府は朝鮮との交渉で竹島(鬱陵島)を放棄することを伝えているので、鬱陵島の付属島である松島(独島)も同時に放棄している。 | 日本と朝鮮との鬱陵島領有に関する外交交渉(竹島一件)においては松島の名は一切出てきておらず、朝鮮側の地図を見ても朝鮮政府は松島を全く認識していないことが分かる。また、その後の竹島事件において幕府の筆頭老中だった浜田藩主松平周防守康任が「竹島は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」としたことや、「松島へ渡航の名目をもって竹島にわたり」との判決文の一節を見ると、竹島への渡航は禁止したが松島への渡航は禁止されていなかったことも分かる。その他、1820年に浜田藩儒の中川顕允が編纂した石見外記に高田屋嘉兵衛の北前船が竹島と松島の間を航路として使用していることも書かれており、幕府が竹島の領有争いにわざわざ松島を含めたとするのはかなり無理があると考えるべきである。 |
1770年に編纂された『東国文献備考』に「鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。」とある。この于山は独島のことだ。当時の日本は独島を松島と呼んでいるので朝鮮領である。1808年の『万機要覧』や1908年の『増補文献備考』にも同じことが書かれている。 | 『東国文献備考』の「鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。」との一文を始め同様の一文は、虚言の多い安龍福の証言の引用である。この当時の朝鮮の地図からいって、朝鮮政府は竹嶼を日本人の言う松島と誤認している。(詳しくは于山島を参照) |
1785年に成稿した、日本の『三国通覧輿地路程全図』に竹嶋(鬱陵島)とその附属の于山島(独島)が描かれており、朝鮮と同じ色で彩色され朝鮮領と明記されている。この地図は小笠原諸島領有の日米交渉の際に、幕府が根拠として用いており、幕府が竹島を朝鮮領として認めた証拠になる[注釈 7](三国通覧図説を参照)。また、当時の日本の『日本輿地図藁』、『日本国地理測量之図』、『官板実測日本地圖』、その他民間で作られた地図には、独島の当時の日本名である松島が記載されていない。記載されている地図も隠岐や鳥取と同じ色ではなく無色である。したがって日本は松島を朝鮮領だと認識していた。また、多くの朝鮮の古地図に于山島が描かれており、この于山島が独島(現在の竹島)である。
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日本の三国通覧輿地路程全図に描かれている竹嶋(鬱陵島)の北東に、南北に長い小さな付属島があるが、島の大きさや形状、位置関係からいって、これは現在の竹嶼であり、この地図に現在の竹島は描かれていない。また、幕府がこの地図をもってアメリカに小笠原の領有権を認めさせたというのは新聞の歴史小説上の話であり、事実ではない[注釈 8]。当時はすでにこの地図よりも遙かに正確な経緯度線入りの『改正日本輿地路程全図』が普及しており、竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)が描かれている。18世紀に入ってからの朝鮮・韓国の古地図の于山島は、全て鬱陵島近傍の竹嶼に比定できる。したがって、于山島は現在の竹島ではない。
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1899年(光武3年)に朝鮮の歴史家兼書道家の玄菜(1886 - 1925年)によって編纂された地理書『大韓地誌』の中に、「大韓全図」という経緯度入りのかなり正確な付属図が付いている。この地図中に鬱陵島と並んで于山の名が記載されている。于山島と書いていないことから、于山が鬱陵島とその周囲に記載されている島全体を指しているか、または于山の文字の位置関係から、現在の鬱陵島に付属する竹嶼という島であることが推測できる。また大韓帝国の領域は東経130度35分までと記しており、現在の竹島を大韓帝国領とはしていない。この『大韓地誌』は大韓帝国の学校でも使われたことのある信用性の高い地図である。
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