日本による竹島編入の有効性
「竹島問題外交交渉史 」も参照
日本政府は、竹島であしか漁を営む国民個人からの領土編入貸下願を契機に、1905年1月28日閣議決定をもって島根県への編入を決定し、同年2月22日、島根県知事により告示された。同5月島根県知事は、竹島を官有地台帳に登録し、同6月あしか漁許可、翌1906年3月に県は実地調査も行う。同7月以降漁業者に貸し付けて歳々官有地使用料を徴収。また1940年に海軍用地となったが漁業許可と土地使用料の徴収は継続した。
日本の竹島編入措置は、先占によった。
- 閣議決定文
北緯37度9分30秒...ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク......明治36年以来中井養三郎ナル者カ該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレハ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属トシ... |
先占の要件は、対象地が無主地であること、国家の領有意思をもってする実効占有である。
- 無主地
無主地という点については、
- 1) 17世紀末に民間の朝鮮人(安龍福)が個人的な地理認識を持ったとしても、朝鮮政府は実地の知見すらなく、また于山島を竹嶼と示す資料などもあり、資料的かつ歴史的な領土認識においても、不確証であり、韓国にはそもそも歴史的な権原というべきものの存在が、推定の範囲を出ず、定かではない。
- 2) 1900年に大韓帝国が勅令で「石島」を鬱陵島の行政管轄権に入れたこと(韓国は石島が今日の竹島とも主張するが、当時の韓国の資料からも別の島であることが実証できる。石島参照)
これらはいずれも領土権の確立に充分とは言えず、無主地の要件は満たされる。
- 国家の領有意志
日本の領有意思は、閣議決定、県知事告示(新聞でも報道)、先占以降の主権者としての行為により明示される。
- 実効占有
実効的な占有については、国家は私人の行為の追認をもって国家占有とできるので[注釈 9]、日本は閣議決定で追認を行い、かつ国有地台帳への登載、あしか漁業許可、 国有地使用料の継続徴収など国家占有の行為があり、「国家権能の平穏かつ継続した表示」を継続していた。(なお韓国による軍事占領は「国家権能の平穏かつ継続した表示」には当たらない)
以上、伝統的な領土取得方法としての「先占」の要件が具備された。
ほか、1905年の日本による竹島編入について、韓国側は「法的に不十分な手続きで、秘密裏に行われたもので非合法」とするが、当時の国際法から見ても、また先占の要件を満たしていることからも十分に合法であり、また「秘密裡」という表現は当時の告示と報道からしても当たらない。なお、判例においては「秘密裏に実効支配をすることはできない」とされており、特定の編入手続きではなくその実効性が争点となる。
- 通知義務
実効性以外に通知の手続きを要するとの主張がなされることがあるが、パルマス、クリッパートンの判例において通知義務は否定され、通知義務を支持する国際法学者もごく少数である。
韓国の主張の概略 | 日本の主張の概略 |
---|---|
1870年、日本の「朝鮮国交際始末内探書」に「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」の記述がある。松島は独島(現在の竹島)である。 | 「朝鮮国交際始末内探書」の「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」この内探書は明治政府が朝鮮の文献を調査した結果で、ここにある松島は于山島のことである。于山島はその古地図より現在の竹嶼を指しているので、この松島は竹嶼である。(詳しくは竹島外一島を参照) |
1877年、日本は竹島と松島について調査した結果「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とし、太政官指令により「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」としている。外一島とは松島(現在の竹島=独島)のことなので、日本はこの時独島を朝鮮領と認めている。 | 日本の太政官指令にある「竹島外一島」は当時島名がはっきりしなかった島である。この頃、竹島や鬱陵島の位置を誤って記録した経緯度入りのヨーロッパの地図が日本に入り、実在しない位置に描かれている島を「竹嶋」、現在の鬱陵島を「松島」、現在の竹島を「リエンコヲルトローック」などとしていたため、当時の日本地図もこれに倣って作成されている。「竹島外一島」はこの実在しない位置の「竹島」と鬱陵島であり、これを版図外とした。 |
1882年、日本が製作した『朝鮮國全圖』に松島が描かれている。また、1883年に同じく日本が制作した『大日本全圖』には、松島は描かれていない。松島は独島なのでこの時日本は独島を朝鮮領と認めている。[42] | 『朝鮮國全圖』の竹島は存在しないアルゴノート島のことで、この松島は鬱陵島のことである。当時の日本の地図は全て鬱陵島を松島としている。下部に描かれている日本の位置からもこの地図の松島は鬱陵島であり、大きさや形も鬱陵島に近く現在の竹島とは全く違う。この地図には経度も記入されておらず、緯度も大きくずれており、当時、竹島と松島の位置が混乱していたことがよく分かる。(竹島外一島も参照) |
1900年の大韓帝国勅令で石島を鬱陵郡としている。この石島こそが独島(現在の竹島)である。 | 石島が竹島であるという証拠はない。朝鮮の古地図を見る限り、石島は現在の観音島である可能性が高い。 |
「大韓地誌」や「大韓新地志」の著者は民間の学者であり、官製図書ではない。そのため当時の公的な見解とはみなされない。 | 大韓地誌 1899年と大韓新地志 1907年の記載には、「鬱島郡の行政地域は東経130度35分から45分までである」としている。竹島はその行政区の外131度55分にあり、当時の韓国は竹島を韓国領としていなかった。また、この頃の韓国の東端を示す資料は全て東経130度33分~58分に入っており、現在の竹島を韓国領としていない。 |
1905年1月の日本による竹島編入は、軍国主義による韓国侵略の象徴であり強制的に編入された。もし日本領であったなら編入する必要はない。この年11月に締結された第二次日韓協約によって、大韓帝国は外交権が事実上奪われていたため、独島(竹島)の島根県編入を知った後、日本が敗戦するまで抗議できなかった。 | 竹島は日本が島根県に編入するまで他国に実効支配されたことはなく、竹島の編入手続きは、国際法に照らしても全く合法的である。また第二次日韓協約が対象とするのはあくまで「第三国」との外交権であり、抗議そのものは十分に可能だった。 |