終戦後 サンフランシスコ平和条約締結までの竹島の扱い
「竹島問題外交交渉史」も参照
GHQ677・1033号覚書
GHQ の「連合国軍最高司令官総司令部覚書」677号 Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.677 SCAPIN677「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」では、日本の領土は北海道・本州・九州・四国およびその隣接する島々とされ、鬱陵島や済州島などを除外するとした。その除外される島のリストに彼らが Liancourt Rocks と呼んでいた竹島が含まれていた[43]。 また、同1033号[44]「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」でも、日本漁船の活動可能領域(これを「マッカーサー・ライン」という)からも竹島は除外されている[43]。韓国はこれらを根拠に、李承晩ラインを制定して日本漁船を排除する線を引き、ライン内部に立ち入った日本漁船に対して拿捕・銃撃を行ったとその正当性を主張している。
シーボルド勧告
1947年3月19日版のサンフランシスコ平和条約 草案では「日本は済州島、巨文島、鬱陵島、及び、竹島を放棄すること」と記載があったが、1949年11月14日のウィリアム・シーボルド駐日政治顧問による竹島再考勧告において、日本側の主張が正当であるとされて以降、竹島の記載は削除され[45]、1949年草案、1951年の最終版に至るまで、竹島を日本が放棄する島々より削除している。
アメリカ空軍訓練利用
1951年6月20日には駐韓米軍ジョン・B・コルト中将が書信を通じて大韓民国の張勉国務総理に米空軍がこの島を訓練用で使えるようにしてくれと要請した。7月7日駐韓米第8軍陸軍副司令官室が駐韓米司令官に送った報告書に“張勉総理だけでなくこの島を管轄する内務長官もこれを承認した”と言及した[注釈 10]。
ラスク書簡
詳細は「ラスク書簡」を参照
1951年、韓国政府は米国政府へ、竹島と波浪島(実在しない島)を日本の放棄領土とすることを要望するが、同年(昭和26年)8月10日、米国政府は、国務次官補ディーン・ラスクより、竹島は日本領であることを韓国政府に最終的な回答として提示した。しかし、翌1952年1月18日に韓国が李承晩ラインを一方的に宣言を行った。
As regards the island of Dokdo, otherwise known as Takeshima or Liancourt Rocks, this normally uninhabited rock formation was according to our information never treated as part of Korea and, since about 1905, has been under the jurisdiction of the Oki Islands Branch Office of Shimane Prefecture of Japan. The island does not appear ever before to have been claimed by Korea.
(独島、もしくは、竹島、または、リアンクール岩として知られている無人の島については、我々の情報によれば、かつて韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について韓国によりこれまで領土主張されたことはありません。)
—1951年8月10日アメリカ合衆国元国務次官補ディーン・ラスク(ラスク書簡抜粋)
韓国の主張の概略 | 日本の主張の概略 |
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カイロ宣言では「日本が暴力および貪欲により略取した他の一切の地域」の日本からの排除を謳っている。かつて日本は公文書において竹島が日本領でないことを公に宣言し、その後朝鮮半島の植民地支配を強化していった時期に竹島を編入した。 | 竹島は日本が島根県に編入するまで他国に実効支配されたことはなく、手続きも国際法に照らして全く合法的である。また公文書において、日本領でないことを公に宣言したこともない。 |
竹島を日本から切り離すことは連合国側共通の了解事項であり、GHQのSCAPIN 677号[47]で竹島の除外が明記されている。またマッカーサー・ラインを示すSCAIN 1033では竹島周囲12海里以内を日本の操業区域から除外している。 | SCAPIN 677には「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」とあり、SCAPIN 1033にも「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文言が盛り込まれている。従って、SCAPIN 677、1033によって除外されていた日本の島々(小笠原諸島、奄美群島、琉球諸島)は、後にアメリカより返還されている。SCAINはアメリカの対日占領政策の一時的措置である。 |
SCAPIN 677 にある「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」との文やSCAPIN 1033の「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文は、必要あれば修正することができる可能性を残したものに過ぎず、その後、竹島を日本領と修正した指令は発表されていない。 | 1946年の日本とGHQとの会談の中で、GHQはSCAPIN677について「鬱陵島は第二十四軍団の指揮下に在り従って本指令に依る日本の範囲の決定は何等領土問題とは関連を有せす之は他日講和会議にて決定さるへき問題なり」と回答している[48]。 |
アメリカ駐日政治顧問シーボルドからバターワース国務次官補への1949年11月14日付電報[50]で「リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。安全保障の考慮がこの地に気象およびレーダー局を想定するかもしれない」と指摘し、「朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リアンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることを提案する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われ、かつ、それを朝鮮沖合の島というのは困難である。また、アメリカの利害に関係のある問題として、安全保障の考慮からこの島に気象およびレーダー局を設置することが考えられるかもしれない」との正式な文書による意見書の提出を受け、1949年12月29日付サンフランシスコ講和条約草案では日本の領土に竹島が含まれることを明記している。 | |
1951年、韓国政府は米国政府へ、竹島と波浪島(実在しない島)を日本の放棄領土とすることを要望するが、同年8月10日、米国政府の国務次官補 ディーン・ラスクは、竹島は日本領であることを韓国政府に最終的な回答として提示している。 |
サンフランシスコ平和条約締結後
1951年に締結された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第2条(a)項「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」について、韓国側はこの条文に竹島の記載がないのは、独島(竹島)が鬱陵島の付属島であるため連合国は韓国領であることを認めていると主張している。
ラスク書簡の再通知
サンフランシスコ平和条約後、日米安保条約に基づく行政協定において1952年7月に竹島を爆撃演習地とすることが日米間で合意されたが[51]、日米に無断で竹島へ調査をしていた韓国人が爆撃に遭遇し韓国政府がアメリカに抗議を行った。韓国の抗議書簡において「韓国領の独島」とされていたことに対して、1952年12月4日に釜山のアメリカ大使館は「アメリカの竹島の地位に関する認識はラスク書簡の通りである」と韓国外交部に再度通知を行った[注釈 12]。しかし、1955年に韓国外交部が作成した「獨島問題概論」では、このラスク書簡に触れた部分を「etc.」で省略したアメリカ大使館の書簡を掲載したことが確認されている[52]。また、韓国の国際法学者である金明基は、この韓国政府によって隠滅されたアメリカ大使館の書簡によってアメリカの意思が「獨島は韓国の領土」と変更されたものとし、ラスク書簡が無効との論拠としている[53]。
ターナー覚書
東京領事ウィリアム・ターナーは、1953年11月30日付けで「リアンクール論争に関するメモランダム」を本省に提出した[54]。ターナーはこの覚書でまず、ポツダム宣言とラスク書簡をもとに竹島問題に米国が不可避的にかかわるべき、というアリソン大使の態度に反対し、この問題に介入すれば「敗者側に永遠の憤りをもたらすだけにおわる干渉」(which could only create lasting resentment on the part of the loser) となるので、不介入で中立政策を採るアメリカ政府の立場を支持する。ターナーによればこの件は、ソ連が占領した色丹島問題と似ている。アメリカは「色丹島が日本の主権に属する」と公式に声明したが、日本はアメリカに対して安保条約に基づく武力行使を要請してこなかった。したがって竹島問題についても、日本人が安保条約を呼び出すのではないかと過度に不安になる必要はない。ただし、「遅かれ早かれ、日本人はラスク書簡について嗅ぎ付け (Sooner or later the Japanese will get wind of the Rusk letter)」、我々がそれを知らさなかったことに憤慨するであろうから、ここで手を打っておいたほうがいい、として以下の行動を提案する。それは韓国側にラスク書簡を示し、それが受け入れられないならば日本と和解するか、国際司法裁判所で解決することを勧める。そして衝突がこれ以上続くならば、ラスク書簡を公にしたうえで、この件の仲介から手を引く、というものである。
ヴァン・フリート特命報告書
また1954年のヴァン・フリート特命報告書においても、A)一方的な領海宣言(李承晩ライン)は違法[55]、B) 米国政府はサンフランシスコ講和条約において竹島は日本領土であると結論している[56]、C)この領土問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれる[57]と記載されており、竹島を日本領とするシーボルド勧告を追認している。また、この内容は当時韓国側にも非公式に伝えられたことが同報告書には記載されている。
詳細は「ヴァン・フリート特命報告書」を参照
マッカーサー2世による電報
8年間続いた韓国の李承晩体制が終焉を迎えた1960年、次の政権に移行するときに当時駐日アメリカ大使であったダグラス・マッカーサー2世が本国国務省に向けて日韓関係改善のために米国が行うべき行為を機密電文3470号[26][27]によって以下の要旨を提言している。その電報の中では、明確に「日本の領土である竹島」を日本に返還させるよう韓国政府に圧力を加えるべきである、と記載されており、1960年当時でさえ米国はラスク書簡当時と変わらぬ認識であったことが確認できる。また、同電報では李承晩の外交を「野蛮な人質外交[58]」と非難し、(李承晩ラインによる拿捕によって)人質となった日本人漁民を解放させるように圧力をかけるべき、とも記載されている。
- 韓国に違法に拿捕された日本人漁師の人質を全員解放させること。
- 日本の漁船を公海上で拿捕する行為をやめさせること。
- 韓国に人質外交 (hostage diplomacy) をやめさせること。
- 不法占拠された竹島を日本に返還させること。
- 竹島が日本に返還されるまで、日韓全体の和平が決着することはない。