新羅のルーツはエベンキ(ロシア)から来たという説があるので紹介します。
【朝鮮半島の歴史】エベンキはいつ朝鮮半島を乗っ取った】
和漢共栄時代から三民戦争時代へ。カラ半島の古代史 リンク
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3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、倭人(渡来人)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、漢人が支配する楽浪郡を攻撃して滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に 突入する。三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、そして、旧帯方郡の東部地方に住んでいたが、356年に 倭人国家=志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたエベンキ人(穢人。朝鮮民族の先祖)が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、エベンキ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。そして、倭人国家=百済・任那と同 盟を結び、今度は高句麗と戦争した。だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とエベンキ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。 643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。倭人とフヨ人は協力してエベンキ人国家=新羅と戦った が、660年、唐と手を組んだエベンキ族勢力=新羅によって、百済は滅ぼされた。668年には、フヨ人国家=高句麗も、エベンキ人勢力=新羅と唐の連合軍 の攻撃により都を落とされ滅びた。最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このエベンキ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。しかし、白村江戦争以降も、エベンキ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本侵略を繰り返した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開していた地域だったのである。
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【朝鮮民族のルーツはエヴェンキ?】にゃんこ先生の学習帳リンク
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古代朝鮮半島は雑居地帯だった。(ここからして現代韓国・朝鮮人は認めていない)簡単に言えば、西半分は中国の植民地。東と南の海岸沿いに原住民が棲ん でいた。中国人は内陸系の交易民なので本国との交通路でない海岸は放っておいたのだ。で、この原住民は大きく2系党あって、一つがツングース系、もうひと つが越系。大雑把に言うと、越系は漁労採取民でツングース系は狩猟採取民。このツングース系は更に扶余系・穢貊系の2種に分けられる。前者が内陸系で後者 が海浜系だ。このうち内陸系が扶余~高句麗~百済、海浜系が粛慎~挹婁~新羅~渤海に属した。
この新羅が朝鮮のルーツだ。
どうして「属した」なんて書くかというと、建国者と人民は一致しないことがあるからだ。新羅を建国したのは中国人難民だが、人民は穢貊系で彼等が朝鮮文化 の基調をなした。その穢貊系の北方での末裔がエヴェンキ人だ。エヴェンキというのはロシアに棲むツングース人の一派のこと。風俗は朝鮮と激似している。だ からエヴェンキ人が朝鮮人のルーツというより、古代ツングース人の末裔にエヴェンキ人や朝鮮人がいると言うべきだろう。
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【韓国人のルーツは、高麗人でも百済人でもなく別民族のエベンキ(エヴェンキ)族 】リンク
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朝鮮民族とツングース系の代表民族であるエベンキ、エベン族とは共通風習、歌、言葉などから、「朝鮮民族」とは同じ流れと分かる。
馬を持たなかったエベンキ族の代表的な歌は、遠くの人々を懐かしむ「アリラン(迎える)・スーリ(感じとる)」。朝鮮のアリランには「アーリアリラン、 スールスーリラン」とそっくりな言葉が続く。節回しも酷似している。アリランという言葉、スーリも意味不明と言ってるが、エベンキの言葉では意味はハッキ リしている。
朝鮮とエベンキ、ワイ族には、棒を立てたソッテ、トーテムポールのチャンスンが共通。朝鮮の神社にあたるものであるソッテって、こんなものなんだよね。 いずれにしても、森を大事にする神社とは似ても似つかぬもの。これも、エベンキなどと同じ風習。中国や日本にはない。チャンソンと呼ばれるトーテムポール の様な木像と同じで、エベンキ族と朝鮮でだけ見られる。
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[出典]
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=269432